更新日:2016年04月08日
秋川牧園の理念の誕生
秋川牧園がなぜ昭和40年代から健康安全な食べ物づくりを志したのか?
そして、今も理想の食、理想の農業に向けて日々がんばり続けているのか?
その理由をご理解いただくには、秋川牧園のルーツである昭和初期に祖父の「秋川房太郎」が中国に開いた秋川農園にまでさかのぼる必要があります。
そこで、今回は秋川牧園の歴史のお話をさせていただきます。
昭和初期、秋川房太郎の挑戦
私の祖父、房太郎は小さい時から農業に対する強い夢をもっていました。そして、山口高商(現山口大学経済学部)を卒業後、単身で満州(現在の中国東北部)に渡り、広大な大地を相手にした農業を志したのでした。
土地もお金もない房太郎でしたから、当初からたいへん苦労しましたが、数年の修行や元手づくりの後、いよいよ秋川農園のスタートを決断します。所は今の中国大連市の郊外で、すぐ近くには海のあるところです。
最初の問題は水の入手でした。房太郎は現地の労働者を雇い、父親の退職金を前借して、すべて井戸堀りにつぎこんでいきました。(大変なベンチャーですね!)しかし、掘っても掘っても水は出てこない。そして、今日でいよいよ資金が底をついてしまうというその日に「奇跡の水」を掘り当てたのでした。房太郎は井戸水を配管し、そのお水でお野菜づくりを始めました。大連では夏になると水不足で新鮮なお野菜が市場から姿を消すものですから、秋川農園のお野菜は大変な人気となったそうです。
理想的な総合農園に発展した秋川農園
その後の秋川農園ですが、房太郎の情熱もあり、順調に成長を続けていきました。
最初に手がけた秋川農園は広さは約40ha。その後、別の場所で始めた農園と合わせると250haの規模となりました。秋川農園の主産品はりんごで、整然と植えられたりんごの木の間ではお野菜を栽培しました。
秋川牧園のマークを見ると、りんごの木がありますね。あれは、実は秋川牧園のルーツの秋川農園のりんごを表しているのです。
そして、鶏を飼い、豚を飼い、牛を飼い、さらにはチーズやワインやビールもつくりと、秋川農園は加工機能ももつ総合農園へとなっていきました。
当時、大連には多くの日本人が住んでおり、その方々が観光をかねて、秋川農園に遊びにくるようになりました。
テニスをしたり、バーベキューをしたり、一日中笑いの声が絶えなかったそうです。秋川農園は仕事の場としてのみならず、生活の場としても本当に理想の農園になったのでした。
秋川牧園の基本理念の誕生
常に理想の農業を求める房太郎は、まだ小学生である秋川実に次のように語っていたといいます。
「食をつくる農業者は人の命を預かるのと同じなのだから、間違ったものをつくるようなことがあってはいけない。」「どの仕事も大切だが、命の根源である食をつくる農業は天から与えられた天職である。」
「秋川農園以外にも、協同組合や合資会社などいろんな形態の経営に人から頼まれて携わったが、一番成績がいいのは家族経営の秋川農園だ。農業に一番向いた経営形態は家族経営だ。」
そうです。実は秋川農園での様々な体験の中から、今の秋川牧園の基本理念の多くが生まれているのです。
現在の秋川牧園は、当時の秋川農園を再現しようとして取り組んでいるわけではありませんが、農業というものは、やり方によっては、職業として、そして生活の場としてこんなに素晴らしいものはないんだという思いは、今も強く息づいているのです。