更新日:2018年05月17日
あなたの畑・あなたの牧場がここにある(アグリロハス5月号)
今から46年前の1972年、廃墟の養鶏場に一文無しで入り込むところから、秋川牧園は壮絶なスタートを切りました。そこから、繰り広げられる数々の不可能への挑戦、まずは、鶏の「無投薬飼育」がいかにして成功を遂げたのか・・・、その序章に迫ります。
病院に行っても、薬が効かない?
戦後、鶏卵や鶏肉が、その安さを競うコスト競争が激しさを増す中、大規模化が進行し、飼育環境の悪い、鶏の無理な詰め込み飼育が進められた現実がありました。
そしてその結果、鶏を始め、多くの家畜の病気の蔓延が続きました。その家畜の病気の予防治療対策として、人への使用量を上回るような大量の抗生物質や抗菌剤が家畜や養殖魚に使用されてきたのです。
その結果、問題となるのは、多くの方々がご承知のように、「耐性菌」です。つまり、肝心要の人が抗生物質を必要とする命の一大事の時に、頼みの薬が効かない・・。今、そういった耐性菌の悲劇が、深刻になっています。
本来、農家に4~5羽程度しか飼われなかった庭先養鶏の時代には、鶏と薬は、縁遠いものでした。ところが、戦後、時を経るにつれ、何十万羽ともいう大規模な養鶏場も出現してきたことと、難病の多発との間に大きな因果関係があるのです。
価格競争、大規模化、やがて養鶏場は病巣のルツボに。~物価の優等生ともてはやされる中で~
お話を、日本の太平洋戦争の敗戦、1945年当時に戻してみましょう。
その頃、農家には必ずとも言えるくらい数羽の鶏が飼われていて、1日に産む2~3個の卵はまさに栄養ある貴重品、家計を支えるために自分で食べるのを我慢し、少し貯まるとお金に替えて家計の足しにしたのです。
戦後の日本は食べるものはなにも無く、超インフレの中で、物価は値上がりを続け、消費者の生活は困窮の極みにありました。
終戦当時でも、卵の値段は1個20円近くもしていて、一方、給料のほうは500円とか1000円とかいう時代、お母さんが家計簿に「薬代、タマゴ3個」と書いたという逸話を今でも思い出されるのです。
やがて1960年代に入って戦後の復興と共に食糧難も去り、食べ物も豊富になる中、今度は、卵も鶏肉も、その安さを競う大量生産の時代に突入します。
海外からどんどん大規模化の情報が入る中で、日本の養鶏も庭先養鶏から、200羽、1000羽養鶏とその規模を競うように。やがては、1万羽養鶏でもコスト競争の中で生き残れないところまで突き進みます。
終戦当時と変わらぬ安い価格で、今でも生産されている卵や鶏肉は、確かに価格の優等生に違いありません。しかし、生き残るための大規模化が進む中で、真っ暗な鶏舎に電球を点けて密飼いする無窓鶏舎が普及しました。
それらの当然の仕返しとして鶏肉が暴発するところとなりました。ここに、家畜や養殖魚、そして鶏と抗生物質、抗菌剤の腐れ縁が始まります。当時にかけて、鶏に流行した病気の名前を少し列挙して見ましょう。細菌性等の病気に由来するものでは、伝染性コリーザー、ブドウ球菌症、コクシジウム症、雛白痢、マイコプラズマ、クロストリジウム、ウイルス性のものでは、鶏痘、ニューカッスル病、伝染性気管支炎等、まだまだ沢山で、とてもここに書き切れることができません。
人への薬がそのまま家畜に使われた問題点
世紀の発明、医療の革命、ノーベル賞受賞の栄を浴した英国のフレミング博士の発明による「ペニシリン」。これが抗生物質の幕開けです。これら、数々の驚異の特効薬が、日本で一挙に普及し始めたのは1960年代です。しかし、その大量生産が軌道に乗り価格競争が激しくなると、今度は、その販売先のターゲットが家畜や養殖魚に向けられたのです。
しかも、人体のための薬より畜産、そして養殖魚関係の方がはるかに需要量も多い。その結果は?
賢明な皆様方は、もうお分かりでしょう・・・。家畜や養殖魚に含まれるこれらの抗生物質や抗菌剤が、毎日の食べ物の中に少量ずつ出て、それが、耐性菌を生み出す。そして、病院で薬が効かなくなる耐性菌の大問題の原因として、院内感染問題と共に大きな社会問題となってきたのです
では、次号、不可能と言われてきた無投薬飼育について、世界に先駆けて成功させた秋川牧園、その苦労とサクセスストーリーに迫ります。
6月号でお会いしましょう。