更新日:2017年09月21日
あなたの畑・あなたの牧場がここにある(アグリロハス9月号)
私のアメリカ物語
母の父母は、現在の山口県周防大島町の出身、当時は人口が増え、島をあげて海外への移民を進めた時代でした。
祖母たちが英語もなにも分からないまま船で渡った先がシアトル。けなげにも洋服屋を始め、そこで生まれたのが母。そして母はアメリカの小学校に通うことになります。やがて、大正時代となる中、一家は日本へ帰国し、山口市で農業を始めることになるのですが、母は女学校に通うのに、日本語が話せない・・・。
「夜になると毎日のように提灯を点けて、山を下って日本語を習いに行ったのよ」と、いつもくったくない笑いの中で話してくれた・・・母とのなつかしい日々が思い出されるのです。
農薬問題に挑んだアメリカ調査
さて、私自身の初めてのアメリカ行は、1960年代、現在の秋川牧園の現地創業に至る12年前のことです。そのころは、1ドルで360円の為替が固定性の時代、侵攻してきた外国鶏に追われて日本の国産鶏の敗色が濃くなってきた頃のことです。
卵やお肉など、安心安全な食べものづくりには、安心安全な飼料が不可欠です。1970年代の創業時、飼料の安全性の課題の中に、原料中の残留農薬と、併せて、収穫後の保管中の防虫対策に使用されるポストハーベスト農薬がありました。原料中の残留農薬としては、栽培中に撒布された農薬だけでなく、特に問題視したのは、一度撒布すれば、何十年も農地の中で消えることがない、有機塩素系の農薬でした。食物連鎖の中で最後には私たちの人体に蓄積する、DDT、BHC等の有機塩素系の農薬だったのです。
数を重ねる渡米の中、この二つの農薬問題に真っ向から挑んだのが、1989年夏、40日を越える、障害忘れることのないアメリカ調査行でした。この調査行の一つの目的は、まず、北米の各地の産地の農家を訪問し、穀物のサンプルをなんとか入手すること。さらにもう一つは、当時は不可能と言われていた、トウモロコシや大豆等の飼料原料について、なんとか、ポストハーベスト農薬を使用しないで周年保管を成功させ、そして、日本へ分別して輸入することだったのです。
当然ながら、アメリカの農家の皆さんは、異口同音に、「不可能、インポッシブル」と口を揃える中、細い針に太い糸を通すような試行錯誤を重ね、そして、やがて、成功への道が開けて行くことになるのです。
ポストハーベスト農薬
アメリカの農薬の袋の説明書きには、栽培中に使用する農薬については、収穫前使用農薬(プレハーベスト農薬)としての説明書があり、その同じ農薬の袋に、収穫後の保管中に穀物に混ぜ、コクゾウムシ等の防除に使用するポストハーベスト農薬としての使用案内が併記してあるのです。
栽培中に撒布する農薬と同じ農薬が、収穫した穀物の中に混ぜられ、しかもそれが、私たちや家畜の口の中に入ると言う、日本ではとても考えられないことが日常のこととしてまかり通っている、これは驚きです。
トウモロコシや小麦等の穀類は、1年に1回しか収穫できない、1年1作の作物です。だから、翌年の収穫が始まるまで、その1年分を保管するのですが、夏になれば、保管穀物タンクの中の温度が上がり、害虫、コクゾウムシが発生し、穀物の商品価値がなくなる。そして、その対策として、収穫時に穀物を入れる時、それと同時に農薬を混ぜるという・・・こんな恐ろしいことが、海外の産地ではごく普通に行われているのです。
私たちは、この重大な問題についてなんとかしなければ・・・と思い、そこで問題のコクゾウムシは、穀物の水分が多いと発生することに着目し、『水分率17%が分岐点、14~15%なら虫は付かない。』という仮説のもとで取り組みを進めました。
そしてそれが、遂に、大きな成功に繋がることになります。もちろん、生産農家が、この水分の管理を年間に渡って行うことは、多くの負担を伴うものですが、その費用を最小限度に抑えるため、タンクの穀温計の設置や、穀温計連動のエアレーション(強制送風)等の組合せの工夫が大きな効果を上げ、やがて、不可能が可能になる・・・ここにポストハーベスト無農薬コーンの誕生があったのです。
では皆さん、10月号でお会いしましょう。