更新日:2017年11月22日

あなたの畑・あなたの牧場がここにある(アグリロハス11月号)

冬を迎える中、家畜たちは秋にはしっかり食べ込み、それが、適量の脂肪としても貯えられる、それが味覚の秋の仕上りなのです。今年は、卵も、お肉類も、皆様方にしっかり食べていただいており、私共も元気づけられる晩秋の日々です。

 国産鶏の改良に青春を賭けた日々 昭和天皇の天覧の栄に浴す

 前号まで、不可能と言われたポストハーベスト無農薬トウモロコシの実現への軌跡をお伝えしてまいりました。なぜ、不可能にそこまで情熱をたぎらせたのか。私の、理想の農業への挑戦は小学6年生の時に鶏を飼い始めたその時から始まっていたのです。

当時の鶏は、1年に240個も産めば驚くような多産鶏でした。国や全国の都道府県には公立の養鶏場があり、そこでは、長年の実績が認められれば、初めて自分の鶏の検定のエントリーが認められたのです。この日本での公認の産卵検定制度には永い歴史が続き、そこは種鶏改良への登竜門でもありました。地元山口県では防府市に山口県種鶏場があり、ここで行われる集合検定に先ずは認められてエントリーしたい・・・それが中学生の頃からの私の強い願いでした。やがて百姓学生の私にその機会が訪れたのは、大学3回生の時でした。

種鶏、改良、日本記録、世界記録その時、エントリーした10羽の鶏が破格の好成績を収め、なんと、その中の1羽が、1年間3651日も休むことなく、365個を連続して産み続け、それは日本での公認最高記録、同時にそのまま、世界記録を意味しました。私も驚き半分、嬉しさ半分でしたが、それ以上に、山口県種鶏場を始め、県庁の皆さんにもとてもお喜びいただき、農林大臣賞の授賞式に臨むためにはるばる東京へ・・・。新幹線もない当時、県庁のみなさん共々、多勢、鈍行で東京までお伴をいただいた時のことを今でも思い出します。中でも、忘れることができない生涯の感激は、翌、昭和31年の春、昭和天皇と皇后陛下が戦後初めて山口県に行幸行啓され、私の作り出した鶏、世界記録無休産鶏を、山口農業試験場に持ち込んで両陛下にご覧いただきながら、直接に、ご説明さし上げるという光栄に浴したことです。

 

青春を賭した種鶏改良の挫折

さて、私が24歳の時、地元の養鶏農協の再建に携わることになり、家を出て職場の宿直室に泊まり込み、不眠不休での頑張りが続きます。やがてその再建が軌道にのり、当初34人だった職員も150人位の大所帯になった昭和37年の頃のころ、突如として、青い目の鶏、外国種鶏の日本への大猛攻が始まったのです。「日本の鶏は世界一」だと、国を含めだれもが思っていたのに、海外の方がはるかに進んでいたということ、まさに、青天の霹靂となりました。

固体の産卵個数では世界記録をもつ日本でしたが、群としての経済能力、生産コスト、斉一性という面では、徹底的に負けていたということです。人の食糧がなくて鶏を殺さなければならなかった日本と、餌が豊富だった海外とでは、日本の養鶏は決定的なハンディを負った形だったのです。海外では、夫を戦場に送りながらも飼料は豊富で、奥さんが鶏を守ることができ、経済性、斉一性を基幹とした品種改良が大規模に継続できたこと、ここに決定的な差があったことについて、日本の誰もが気付かなかったのです。外国鶏の怒涛の攻勢、日本政府も、国や県の種鶏改良機関もどうにもならず、あっという間に、日本の1,400軒もの孵化場は、僅か1軒を残して、3年間で全滅し、日本中が外国鶏に席巻されることになります。

私が責任をもっていた養鶏農協も、最後には、日本に残る国産鶏7社の一つとして奮闘を続けましたが、やがて弓折れ、矢尽きることになります。給料日の前日は、明日の給料をどうして払うのか、明日の手形をどうするのか、毎日のように開く役員会も深夜から早朝に及ぶのですが、無い物は無いのです。最後に、役員の皆様の冷たい視線が、私に注がれ、「結局は、秋川さんが悪い。秋川さんは経営者ではない」この言葉は、私には、とても堪えました。どうにもならなかったこととは言え、多くの方にご心配と苦痛をおかけし、今でも、本当に申し訳なく思う日々です。

 

挫折乗り越え、再出発

再出発、秋川牧園、秋川実、養鶏当時、日本国内の同業者1,400軒の内、最大手の1社を残して、他のすべてが廃業倒産に追い込まれました。「このままでは、死にきれない」そんな思いがふつふつとたぎるその醸成の日々の中、すでに私は、齢、40歳を迎えることになります。

 国産鶏改良の事実上の責任者だった私は、自分の蓄えはすべてはきだし、手元に残ったのはポケットの中の5万円だけ。年金を解約して得た僅かのお金を合わせて175千円。本当にありがたいことに、国民金融公庫さんが20万円を貸して下さり、合計の375千円也、それが、裸の再出発のすべてでした。1972年、昭和477月、人生一文無しの中、自己生命をかけた裸の挑戦が始まったのです。

 では、来月12月号でお会いしましょう。

 

秋川牧園の商品一覧

おためしセット